2013/04/18

酸っぱ辛いでいきましょう



物事に前向きであれば、人生はうまくいく

・・・的な本は山ほど出ているけれど、知人に薦められて読んでみた本がたまたまそんな本だった。まじめ系の本だったのに、書いてることはその辺のスピ本と同じ感じだった。
しかし、多くのスピ本と違うのは、ある程度エビデンスに基づいている内容ということでしょうか。一応学術系の本だからね。そういう意味では、スピ本に書かれていることが学術的にも立証されつつある、ということがわかり、良かったのかもしれない。

前向きに前向きにって言われるのはあまり好きじゃない方だけど、そういや最近プロセスシンキング(続きがあるように考える方法)もしてなかったな、と思い、使う言葉に少しは気をつけてみようかしら、と思った。

今年は私にとって、総復習の年のようで、これまで学んできた事を再学習する機会も多く、技を深めていくフェーズに入っています。そんな一環で、カウンセリングについても再度学び直している中で、自分の青年期までを振り返るという機会がありました。

もっとも印象深いものは何か、というお題でしたが、振り返ってみると、ネガティブな記憶ばかりがよみがえってきました。そんなのありきたりな感じがしたので、無理矢理ポジティブなのを一発かましてやろうと脳内検索したものの、冴えた感じのものは何一つ思い出せませんでした。
仕方がないので、あらためて、幼少期からのネガティブ系の記憶を振り返ると、結構今に影響を与えているものが多いのがわかります。ヒーリングや瞑想でだいぶ解消しているものの、ネガティブなものは一発の打撃でかなり広い範囲に影響を与えるのでしょうか、まだその影響と思われるものは残っています。

こういったネガティブ系の出来事がなければ、私はもっと幸せだったのだろうか・・・などとぼんやり考えていたところ、「いや、そうじゃない」と確信しました。もし、あれらの嫌な出来事がなかったら、私、相当ぱーぷりんな感じの人になってたと思う!
今となっては、ネガティブ系打撃を何回か受けたおかげで、ようやく普通の人においつけるまっとーなレベルの人間になれた気もする。あれがなければ危ないところだった。「あの人、やばいよね」とか言われる人になってた。たぶんなってた。ほんとあぶなかった。

それにしても苦々しい思い出が多いなぁ・・・とか思ったところで、「苦々しい」とか描写してるからそう脳内に刷り込まれちゃってるのかもしれない、前向きに言い換えてみよう!と、ふと、遊び心が芽生え、「甘酸っぱい思い出」などと言い換えてみました。
しかし、「甘酸っぱいもの」がこれといって好きではない私にとっては、それがあまり前向きに感じなかったので、好きなもの・・・ということで「酸っぱ辛い思い出(酢辣湯麺のイメージ)」と言い換えてみたところ、気分は明るくなりました。(というか、おもしろくて笑ってしまった)
しかし、「つらくないもの」を思い浮かばせる感じではなく・・・なんか、酸っぱ辛いことって、ひどそう・・・な感じもしますが、ま、気分は前向きになれるので、きっと良いのでしょう。

酸っぱ辛いでいきましょう。

2013/04/11

ゆる〜い感じ



私は元来おっとりしていて、間が抜けてる人間だったらしいが、何きっかけか少し前まではキリキリした、間違いを許せない人間に変わっていた。
しかし、最近歳を重ねてきたせいか、いろんなことへの許容量が増し、元来の間抜けさが戻ってきているのがわかる。

やっぱり人は歳を重ねるごとに、子供の頃の自分に戻って行くものなのだろうか。

私は、羽根つき餃子を焼いて、きれいに盛りつけようと、フライパンに皿を近づけてフライパンをひっくり返したにもかかわらず、ほとんどの餃子を皿ではなく、床に落としてしまうような人間だ。

だけど、そういうことがアハハと許せる方が楽しい毎日だ。

こういう”ゆるさ”が戻ってきたことで、私本来の人生における選択の基準のひとつは、やっぱり「おもしーか、おもしくないか(おもしろいか、おもしろくないかの意)」にあることをあらためて実感しつつある!



そんな感じで、「これからは、人生における”お楽しみ”に関する部分を追求したい」とポツリと母に話してみると、「あんたは恵まれてるんだね」と言われ、そっか、毎日の生活の中でお楽しみについて日々考えている人なんて少ないのかも、とせっかくの意思決定がグラグラ揺らいでいた今日この頃でしたが、不思議な事に「がんばれ!」と言わんばかりに、「人生におけるお楽しみ」を重視している人たちや、お楽しみの大切さを謳った本などが続々と目の前に現れはじめました。

そうした人たちの話を聞いたり、本を読んでみることで、「やっぱ、お楽しみで間違いない!」とまた自信を取り戻すことができました。

みなさんにどうやったらお楽しみについて共有できるだろう、そんなことを最近は考えています。

2013/04/07

違和感


・・・また1ヶ月くらい経っちゃった。光陰矢のごとし。

春らしくなってくると、毎年のことですが、買い物したくなり(エネルギーの発散方法のひとつだからなのでしょう)、あっという間に散財して、今はすでに自粛モード。

私が買い物する店はある程度決まっているのですが(店がなくならない程度に行く店を決めている・・・よく行く店はなくなるジンクスを持つ女。店の人ごめん。愛しすぎるとダメみたい)、とはいえ、ざざざーっといろいろな店の新商品をウィンドウショッピングして流していると、今年はイエローが流行ってる?

流行ってはいないか。イエローがトレンドカラーってやつ?
イエローといえば、パーソナルカラーでいうイエローベースのスプリングやオータムの人が似合うじゃん?と思うかもしれませんが、今年のトレンドカラーとして各ショップが作っているイエローは、サマーの人に似合うイエロー。というか、イエロー以外でもサマーの人の色を使ったものが全体的に多いみたいでした。

・・・よって私が買えるものは今シーズンはほとんどなし。
ちなみに先シーズンはオータムの色がトレンドカラーだったから結構選べたのよ。というか、選べ過ぎて破産しそうになった。でも今思えば、毎シーズン必ずオータムカラーが出てくるわけじゃないから、ある時に物色しておくので良かったのかもしれません。

ということで、スプリングやオータムの方、今年の春夏は似合うものが少ないかもしれませんのでお気をつけて・・・。

色でも今年はオータムの私は周りの雰囲気とは異質の存在となっていますが、そればかりか最近は自分の周囲の人間関係や普段の環境の中でも、”なんとなく”違和感があるのがずっと続いています。

なんでしょうね〜。これね〜。
シンプルにいうと、「ズレてる」・・・私が。
私一人が今いるところからちょっと「ズレ」始めてる。そんな感じがします。
ズレてるって例えばどんな感じかというと、
今までは何か話していても「そうそうそう!そうだよね〜」みたいに周りのみんなが私の話にも共感できる部分が多かったが、今は、「・・・あ、そう・・・なんだ・・・(この人ちょっと変?)」とか「・・・へぇ(自己主張が強いなぁ)」とか、そういう空気感になります。

占星術的にいうと、今は環境に関して天王星の影響が出ているときらしく、なんか周囲がこういう感じになるのも致し方ないのかと。水瓶座の方たちの中には同じような感覚になっている方もいるかもしれませんね。

たぶん、「新しいところに行く」直前なんだと思いますが、次はどこに行くんですかね〜。物理的な移動じゃないかもしれませんが、とにかく、こういう狭間時期というのは、やきもきします。

もう少し様子を見てみましょう。

2013/03/09

でっかいわらじ


私はこうしたヒーリングや透視を行うヒーラーという立場とは、全く違ったもうひとつの別の顔ももっているので、ヒーリング1本の人からしたら、2足のわらじを履いているようなヤツだといえるのかもしれません。

昨年は、ヒーラーじゃないほうのわらじがタッタカターと早足で進んでいたため、ヒーラーのわらじの方はいささかお休みモード。勢いがありませんでした。
だから、今年は追いつけ追い越せで、ヒーラーのわらじの方をがんばりたい!と、先般知り合いに話したところ、「2足じゃなくて、でっかい1個のわらじになればいいのにね」的な事をアドバイスされました。

でっかい1個のわらじ・・・(想像)・・・それでは歩けまい。

・・・そういうことではなくて、要はバラバラだと考えずに互いが絡み合った大きなひとつのことをやっていると思えばいいじゃない、ということが言いたかったのです。

なるほど。そういう風になれたらいいな、と強く思い、今このバラバラ感を少し解消できないか、試みているところです。

今年は私のパーソナルナンバーが2。つまりバランスがテーマとなってくる年。この年にこういったアドバイスがもらえるなんて、奇遇なこと極まりなし。

でっかいわらじ・・・スノボー的な?
・・・別に両足分がまとまっちゃうっていう意味じゃないか。間違って想像した。

うーむ。おもしろい。

2013/02/02

意味あること



「こんなことして、いったい何の意味があるんだろうか」

などという疑問が沸き上がることがある。

「もっと意味のあることをやりたいんです!」とか。

前回の話題と続いた感じがありますが、でも今回はそういう哲学的な、空(くう)的なことではなくて、もっと現実的な面でよく使われる「意味がある」ってことについて。「意味がある」ってどういうことでしょうか。

私は「意味があるか、ないか」に何かとこだわってきた方のタイプですが、ここにきてふいに、「意味ないって思うのって、自分の世界が狭いだけなのかも」と思うに至りました。・・・これが俗にいう、若かったってやつ?

もう少し別の言い方にしてみれば、「意味がない」と感じるのって、結局自分の頭の中での論理展開で落ち着く結論を見いだせない、ということなんじゃないかっていうことです。俗っぽくシンプルに言うなら、「浅い」とか?(笑)
「とあること」に意味を見いだせるだけの考え方のバリエーションがないってことというか。

究極的にいうなら、どんなことにも意味があるわけですから(逆に言ったら、どんなことにも取り立てた意味はない)、そういう風に考えられない人が、「こんなことをしていったい何の意味があるのか」とぷんぷん起こったり、無気力になったりするのかもしれません。
仕事などでも、意味ないことをやらされていると感じることもあるかもしれませんが、意味があるかないかというよりも、もしかしたら、よりダイレクトに効果的か効果的でないか、というようなことを感じているのかもしれません。

「意味があること」を探し求めてきたけれど、またもや青い鳥は肩にとまってた的な結末に。

だから、「意味があること」を探すことはやめて、「やりたいこと」を素直にやるのがよかろう、ということかもしれぬ。
また、意味がないと思うことにぶち当たっても、自分の論理展開の幅の狭さのせいなのだと思えば、理解の助けにはなるかもしれぬ。
ということでしょうかね。

意味を見いだせるか否かは自分次第。無意味さや不毛さを嘆くのはすぐにやめて、早速見聞を広めよう、ということですかね。


何度も言ってるかもしれませんが、また思いました。

2013/01/27

ややこい夢



新年早々また風邪っぴき。
野口晴哉によると、風邪がひけるということは喜ばしいことであり、体をすっきりさせるために利用するとよい、ということなのでそういうつもりではいるものの、息苦しいのはつらいもの也。

息苦しいので断続的な眠りになるせいか、よく夢を見ます。
最近は、潜在意識にあることを寓話的に表したような夢が多かったのですが、先日は直観的な教えの夢というか、ひらめきに近い夢をみました。

それは何かというと、完璧主義に関するお知らせ・・・です。(もはや夢じゃなくて、単なるひらめきなのかも。)

一旦完璧主義の夢の内容は脇においておき、話はお正月に見たダライラマの対話番組について飛びます。
さまざまな日本の科学者とダライラマが対話する番組だったのですが、とある学者が「空(くう)」についての見解を話しました。それを聞いたダライラマは学者の見解に対し、「空(くう)」とは何かを話したのですが、そのときに聞いた「空(くう)」とは何かというダライラマの説明と、その後教育テレビでたまたまやっていた般若心経の解説番組で聞いた「空(くう)」の説明とをあわせて、我が家では、「空(くう)とは、”意味がない”もの」なのかぁ・・・という話になりました。

因果応報という言葉もありますが、「動的平衡2」におもしろいことが書いてありました。

つまり、少なくともミクロな世界では宿命や運命はありません。因果律も決定論もないのです。そこにあるのは共時的な多義性だけです。(中略)しかし、それは因果的に起こったわけでもなく、予め決定されていたことでもない。共時的で多義的な現象がたまたまそのように見えているにすぎません。観察するからそのように見えるだけなのです。
(「動的平衡2」より)

つまり一部だけを切り取って見ているから因果として見えるだけで、実際は因果律はないということを言っているようです。これを読んだとき、衝撃的でしたが、なんとなく先の「空(くう)」の概念とつながった感じがしました。「色即是空」ということを「”意味のあるもの”は”意味のないものである”」と訳してみると、切り取って一部を見てそれに意味をつけているけど、それは本当はそれではないということであるからして、、、難しいですね。

ま、難しいのでこれ以上はまたこの次ということで、そういう感じでいろいろ考えてた正月明けだったのですが、簡単にまとめると、私たちは「世界」を「切り取って」理解している、ということが頭に残っていたんだと思います。

で、この「切り取った世界」、つまり「自分の世界」、もっというと「制限された自分の世界」とも言えると思いますが、こうした世界の中で我々は普段生活しています。しかもこの「世界」は人それぞれ似ているようで異なるものであることは容易に想像できるでしょう。

それで、最初の完璧主義の話に戻りますと、”完璧”と思っているのって、所詮はそうした「切り取った世界」の中での完璧にすぎないと思ったんですね。井の中の蛙大海を知らず・・・というか、視野を広げると、もはや自分が完璧と思っていたものは完璧ではないかもしれないし、そうしたでっかい世界での完璧ってなんなんだろう、と思いを馳せると、自然界を見習うしかなさそう、という結論になりました。・・・そう、要するに、そのままが世界にとっては完璧な状態、ということです。
なんであろうと。人工的であろうと。生まれたもの、存在するもの、見えるもの、見えないもの、それらは、そうあるからそうあれるというか、それ自体そうなるしかないという、偶然的な必然なのではないかなぁ〜とか、、、というのを夢でひらめいたんです。

ん〜。マンダム。

2013/01/14

とある雪の日の出来事



今日は東京は大雪でしたね。
あっという間に積もって、窓から雪がびゅんびゅん舞い散っている外を眺めていると・・・

もう耐えられねー!

ということで、カッパを来て外へ飛び出しましたっ!

道には人影はないものの、公園に行ったら子供たちが雪合戦でもしているかもしれない、と思い、ザックザックと足跡がほとんどない道を歩いて公園の中へ突入!

道よりは公園の中の方が人影が。広場の方へ行ってみると、数組の親子や子供たちの姿が。雪合戦をしている奴らがいたら、どさくさ紛れに入り込んで一緒にやらせてもらおう!と思って、「誰か雪合戦してるやつ、いねーかー」となまはげよろしく、探していましたが・・・。

みんな、ダルマを作るのに夢中でね。。。
そこら中にダルマ、ダルマ、ダルマ。

ダルマはいいから、こう・・・キャーキャーいいながらやらないもんかね。合戦を。

男の子の兄弟が少々やり始めましたが、流行らないのかすぐにやめて帰ってしまった。。。でも、彼らが公園の真ん中に寝っころがったりして楽しそうだったので、彼らが帰った後、私も寝っころがってみた。楽しかったが背面がびしょ濡れになった。

誰も合戦を始めないので、仕方ないから一人で木に向かって雪玉を投げて遊んでいたが、公園の放送で「木の枝が折れるから、木の下には行くな」と流れたので、木に投げるのをやめ、消化不良だが、帰るしかないのかと出口付近へ向かうと、そこに公園内のマップが書かれた看板があったので、試しに看板に向かって雪玉を投げてみた。

やっぱり何かにあたると、手応えがあって楽しいのね。そこから、看板と私の雪合戦、テニスで言ったら「壁打ち」みたいなものかもしれませんが、ひたすら看板に向かって雪玉を投げ続ける私。楽しすぎて、ずーっとやっていましたが、人が通るときは、不審者と思われる可能性があるので、ダルマを作っているフリなどをしてやりすごしました。
しかし、フェイクのために作ったミニダルマに向かって雪玉を投げて壊してみると、案外楽しかったため、今度は自分で作って自分で破壊という、ヌメロロジーナンバー9と1を両方持つ私らしい活動をしばし行い、まだやりたらなかったけど、びしょ濡れで一旦着替えた方が良さそうなので、帰りました。

家に帰ると、「ちょっと行ってくる」と行ってから、かれこれ一人で一時間近くも遊んでいたらしく、母が心配して迎えにいこうとしていたところでした。

70近い母が、40近い娘を公園に迎えにいく・・・切ない。

少し反省した雪の日でした。

あー。楽しかった。

2013/01/05

学び


毎年、お正月ムードが消え始めてくる頃には、「今年は肉体改造する!(特に柔軟性)」と思うもので、今年も寸分違わず思ってしまったのですが、毎年と違うのは「たぶん、1月いっぱいも続かねぇな」とすでに思っているところです。
あきらめムードから始まる感じですが、そういう方が案外うまくいくかもしれません。ハムストリングと股関節を柔らかくしたいんです。

さて、本日は「学び」について。

「学び」についての私の見解って以前にも書いたかな~。2013年バージョンってことで。
2013年バージョンといいつつ、私って本当にずーっと同じ行動パターン、つまり思考パターンの中にいるので、とある場所に行って、前回何したか、どこに何を置いたのかなどを忘れても、まっっったく同じ行動をするらしく、前回自分が置いた場所にまた何かを置こうとして、図らずも前回の行動が記憶によみがえったりします。
そんなとき、いつでも進歩のない行動パターンがとっても恥ずかしくなります。

でもまた語っちゃう!同じ思考パターンでもいいの!

私たちは人生の中でさまざまな「学び」に出会い、ひとつずつそれを学んでいくことで霊的に成長するのであ~る

などとよく言われますし、聞きまし、読みます。
そのたびに、

・・・ていうか「学び」ってなんだよ。

と、ちょっとイラっとします。してました。

なんでイラっとするかを自己分析してみると、

・なんでも「学び」って言えば済むと思ってる気がする
・学ばなきゃいけないと言われている気がする
・もっというと、学んでねーヤツを蔑む意識を感じる
・私は別に学びたくない
・世の中ってそんな真面目くさったもんなんだろうか

とかとかとか。。。
そんな気持ちが「イラっとする」に見え隠れしていました。

とはいえ、「学び」という言葉を何に言い換えると自分にしっくりくるのかわからず、人に話すときに自分でもめんどくさいので「学び」という言葉を使ったりしていました。でも使ったそばからイラっとしてたんですけどね。

先日、ようやく「学び」を言い換えるにふさわしい言葉を見つけました。

「学び」をタンジー語に言い換えると、それは「変化」です。

「変化」の方が私にはしっくりくる。

私たちはエネルギー体、単純化して考えるために化学的な見方をすると、いろいろな化学物質の集合体といえますよね。H2O、Mg、Feとかいろいろ。

それらの物質は、単品で安定しているけれども、何かと反応して新しい物質に変わったりしますよね。こういうことが、私たちが認識している上記の化学物質だけでなく、もっとミクロの世界でも毎瞬行われているとすると、私たちは一瞬一瞬変化している存在と言えるわけです。

で。いわゆる "学び" と言われるような出来事を化学反応に例えると、小学校の頃に理科の実験でマグネシウムがバッと燃えるやつありましたよね。ああいう、「わ!びっくりした!」みたいな変化が "学び" と言われるような人生における印象的な出来事と言えます。

要するに、「変化」するきっかけが起こり、大きく変化する場合もあれば、うまく変化しなかったり、一部だけ変化したり。「学び」というと、学ぶ前よりも学んだ後の方が上へ行っているような印象を受けたのですが、「変化」だと、前とは何かが変わったというだけで、良いも悪いもないから、なんかノビノビやれる感じしません?
ほっといても変化するし。

やらなきゃいけないことなんて、ないと思う。今日この頃。
だから、「変化」という方が、いいなぁ。




2013/01/03

今年もよろしくお願いします!


あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします~。

今年は比較的早い段階で新年のあいさつをUPできましたな。ほほほ。

昨年中に昨年を振り返れなかったので(心の中では振り返った)、改めて振り返ってみると・・・。

そうですね~。1年通してみてわかったおもしろいことは、2012年は ”感情” につっこんでいった年だったな~ってことですね。
5月にストレスリリースのキネシオロジーを本格的に習って、感情というものが人体や人生にどういった影響を及ぼすのかということを、ふ~んっ・・・って感じで知り、年の後半からは感情能力開発というものを実は学んでいたんですが、そこでは本当に大きな気づきがありましたね~。後半の感情の講座では、「人の表面に出ている行動やその他もろもろは、感情を通して出てきているものである」ということを実感しました。水瓶座と言えば、クールで知的、いつも公平で感情に流されない、という印象もあることから、もともと感情に疎い星座とも言えると思いますが、40近くなって ”い・ま・さ・ら” 感情って重要!と思った次第です。はい。

感情がある、ということを改めて実感すると、自分も、自分以外の人たちの行動も、なんと愛おしいことか。「ふつうに ”考えて”、それってNGっしょ!」というクールなぶった切りをする前に、「・・・だよね~。そうさせてる感情があるんだね~」なんて思えて、不器用な人たちを抱きしめたくなっちゃう! そんな変化を私の心にもたらしました。

そういう風に思えると、自分のことも全面的にYESになるんですよ。だって、しょうがないじゃない、って思える。とにかく良い変化が起こりました。

それから、、、去年は密かに「(プチ)死ぬかもしれない」体験をしていたのですが、その体験をしたときに、「あ~、もうこりゃ先ないな」と思って、一方で「こういう時って人ってやっぱ何かやってなかったことを悔やむのかしら」なんて冷静に考えつつ、自分の心の内に目を向けてみました。すると、ずばり”後悔”という気持ちは感じませんでしたが(結構やりたい放題やってたから・・・?)、ま、最初に恐れが出てきて、さらにその向こうに感じたのは、「安堵」でした。

「これでやっとすべてから解放されるんだ!」という本当にホッとして、終った!やっと終ったんだ!という体中と心の力がフッと抜けてなんともいえない、、、安堵ですね。安らぎ。
これがすごく衝撃的で、自分も「安堵」を見つけたときには「・・・え!? マジ!」と、がっかりというか、その安堵を感じたときに、はじめて少し後悔のようなものを感じたかもしれません。でも、そんなちょこっとの後悔をさらに覆い隠して上塗りするほどの安堵の波、波、波。あ~、自分がんばって生きてきたな~と、ほんとホロリと涙しました。そして、ちょっと無理させてかわいそうだったな〜とも思いました。自分で自分を抱きしめて、ヨシヨシってしてあげたい感じでした。
私は主にねじれ型ですけど、最近は大脳型も濃くなってくるときがあるので、プチ体験なのに、ここまで妄想が広がり、勝手にホロリしてすごいな、と思います。

でも、この妄想体験はすごーく意義深いものとなり、2013年・・・というか、これからどう生きるかというひとつの基軸になりました。もう自分がかわいそうだな、なんて思うやり方で無理させて生きるよりも、これからは楽にやってこうと改めて気づくことができました。
野口晴哉が「悠々と」在るのが良いとよく本に書いていましたが、この悠々という感覚を、すべてのものから解放された安堵を基軸にすることで実践できそうです。


なぜかそのプチ体験のときに読んでいたのがこの「ライフ・レッスン 」。私が体験したときに感じたことなど諸々と同じようなことが書かれてて、奇遇だな~、と思いました。これを読むと、改めて自分はどう生きたいのかをゆっくり考えたくなると思います。今いろいろ迷っている方、なんだか自分が不明瞭だと思う方は読んでみてはいかがでしょうか。毎日、毎瞬、静かな心で世界を自分の内なる湖に映して、自分の内なるスペースを保ちつつ世界へ参加する、なんかこれが悠々と人生を過ごせるコツなのかなぁと今は思いつつ。やってみてます。

そして忘れてはいけないのが、2012年といえば、私の三浦大知元年!イエ~イ!やったね!
お正月は特に見たいTVもなかったのであらかじめ用意しておいた大知のライヴDVDを見て楽しんだぜ!


2011年に2NE1、2012年に大知と、共通しているのは歌や踊りが抜群にうまいこと・・・のほかに、なんかみんながんばり屋さんなこと。。。歌って踊ることが好きだから私たち努力してます!って感じが伝わってきて、努力とかクソだぜ!などといきまいていた私が「努力っていいよね」なんてホロリと(歳か!)してしまうほど。私もこんな風に清々しく何かに努力した~い、と思わせてくれる何かがある!
加えて、大知は愛を感じるよね~。ハートの温かさが伝わってくる。おばちゃんは、もうこういう優しい感じがいいのよね。というか、私自体も2012年後半からテーマは「愛」になってるので、大知の真摯な姿を見習いたいとライヴDVDを見ながら思っていました。くじけそうになったらこのDVD見てがんばろうと。(マジ)

ということで2012年の振り返りがなげーって感じですが、2012年の後半に「本当の愛ってなんだろう?」というテーマで毎日を過ごしていたんですが、2013年になってなんか急に変わって、テーマは「愛」だけになりました。もう疑問系じゃないんです!短期間ですごい進歩や!
さらにすごいのが(また自画自賛ですが)、もし”愛と関わりたい” なら、愛が欲しい〜っ誰か〜っ!愛くれ〜!とおねだりして愛を求めるよりも、自分が誰かに愛を与えた方が早いんじゃないかと気づいたことです。誰かと愛のある関わりをもっとすれば良かった、何をブクブク・・・基、、、ビクビクしてたんだ!、これが私の思い残しでしたので、それならば・・・、ということですね。

そんな風に思って、ヌメロロジーでお世話になっているエリ佳さんのブログを見ていたら、昨年末に行われた新時代(2012年12月21日以降の新時代ね)を迎える儀式でレバナが伝えた新時代のテーマは「LOVE, PEACE, JOY」だそうで。私が昨年感じた”安堵”の感覚。安堵に包まれると、当然ですが、とっても心が穏やかで、ふわーっと感謝の気持ちみたいな感覚になって、なんだかうれしいみたいな気持ちになるんですよね~。私はこの感覚をざっくり「愛」じゃね?と思ってテーマ「愛」にしてみました。愛の時代来てますからね~、みなさん。乗り遅れないで!

人間の本質は、こうした平和で喜びに満ちたエネルギーなのでしょう。いつもこのエネルギーを感じていたいですね。自分の深~い部分にある波長に耳をすませて、チューニングしてみましょう。きっとJOYFULな感覚を思い出せるはずです。