2013/01/27

ややこい夢



新年早々また風邪っぴき。
野口晴哉によると、風邪がひけるということは喜ばしいことであり、体をすっきりさせるために利用するとよい、ということなのでそういうつもりではいるものの、息苦しいのはつらいもの也。

息苦しいので断続的な眠りになるせいか、よく夢を見ます。
最近は、潜在意識にあることを寓話的に表したような夢が多かったのですが、先日は直観的な教えの夢というか、ひらめきに近い夢をみました。

それは何かというと、完璧主義に関するお知らせ・・・です。(もはや夢じゃなくて、単なるひらめきなのかも。)

一旦完璧主義の夢の内容は脇においておき、話はお正月に見たダライラマの対話番組について飛びます。
さまざまな日本の科学者とダライラマが対話する番組だったのですが、とある学者が「空(くう)」についての見解を話しました。それを聞いたダライラマは学者の見解に対し、「空(くう)」とは何かを話したのですが、そのときに聞いた「空(くう)」とは何かというダライラマの説明と、その後教育テレビでたまたまやっていた般若心経の解説番組で聞いた「空(くう)」の説明とをあわせて、我が家では、「空(くう)とは、”意味がない”もの」なのかぁ・・・という話になりました。

因果応報という言葉もありますが、「動的平衡2」におもしろいことが書いてありました。

つまり、少なくともミクロな世界では宿命や運命はありません。因果律も決定論もないのです。そこにあるのは共時的な多義性だけです。(中略)しかし、それは因果的に起こったわけでもなく、予め決定されていたことでもない。共時的で多義的な現象がたまたまそのように見えているにすぎません。観察するからそのように見えるだけなのです。
(「動的平衡2」より)

つまり一部だけを切り取って見ているから因果として見えるだけで、実際は因果律はないということを言っているようです。これを読んだとき、衝撃的でしたが、なんとなく先の「空(くう)」の概念とつながった感じがしました。「色即是空」ということを「”意味のあるもの”は”意味のないものである”」と訳してみると、切り取って一部を見てそれに意味をつけているけど、それは本当はそれではないということであるからして、、、難しいですね。

ま、難しいのでこれ以上はまたこの次ということで、そういう感じでいろいろ考えてた正月明けだったのですが、簡単にまとめると、私たちは「世界」を「切り取って」理解している、ということが頭に残っていたんだと思います。

で、この「切り取った世界」、つまり「自分の世界」、もっというと「制限された自分の世界」とも言えると思いますが、こうした世界の中で我々は普段生活しています。しかもこの「世界」は人それぞれ似ているようで異なるものであることは容易に想像できるでしょう。

それで、最初の完璧主義の話に戻りますと、”完璧”と思っているのって、所詮はそうした「切り取った世界」の中での完璧にすぎないと思ったんですね。井の中の蛙大海を知らず・・・というか、視野を広げると、もはや自分が完璧と思っていたものは完璧ではないかもしれないし、そうしたでっかい世界での完璧ってなんなんだろう、と思いを馳せると、自然界を見習うしかなさそう、という結論になりました。・・・そう、要するに、そのままが世界にとっては完璧な状態、ということです。
なんであろうと。人工的であろうと。生まれたもの、存在するもの、見えるもの、見えないもの、それらは、そうあるからそうあれるというか、それ自体そうなるしかないという、偶然的な必然なのではないかなぁ〜とか、、、というのを夢でひらめいたんです。

ん〜。マンダム。

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