2011/01/18

見ているようで見ていない

最近、女性専用車を設けている電車も多くなってきましたね。
最初の頃は、「女性専用車なんて、逆に女性蔑視!」などと思ってプンスカしたりしていましたが、混んでいるときに乗るときなどは女性専用車が案外心地よいです。

一度、女性専用車が混んでいたので、空いていた女性専用車の次の車両、、、すなわち、女性専用車に乗れなかった男性ばっかりがいる車両に移動したことがあるのですが、なんつーか・・・。
移動した瞬間、オジサン臭い匂い(雰囲気じゃなくて実際の匂い)がプーンとして、ドン引きでした。やっぱり女性専用車は女性の香りがしているのだなぁと実感しました。

そんな女の園、女性専用車に平気で乗車してくる男性がいます。
目の前を見ていてもそこにでっかく「女性専用車」という貼り紙があるのにも気づいておらず、車掌が車内放送?で「男性は女性専用車からご遠慮ください」的なことをインフォメーションしても、全然気づく気配なし。
なんでも注意してくれるおばちゃんに肩を叩かれ「あんた!女性専用車だよ!」と言われて初めて、ハッとして車両を移動したりします。

そういう人を見かけるたびに、「この人はいったい何を見て、何を聞いているのだろうか」と思ってしまいます。

実際、人間は、自分の見たいものを見て、聞きたいことを聞いています。注意の範疇を外れているものは、例え目の前にハッキリ現われたとしても脳が無視してしまうんでしょうね。そう考えると、私たちが見逃してしまっているかもしれないものは、どれだけ多いことでしょうか。

にもかかわらず、自分の見たり聞いたりしていることが絶対的な現実だと思い込んだりしているわけです。

私の母は、目の検査をすると通常の機器では計測不可能なほど目が悪く判定される・・・判定不可能のようなのですが、本人曰く、「でも、見えてるし」とのこと。

数値上でいえば、「見えてるはずない」と言われてしまうような状態でも、事実本人的には見えていて不自由がない。
実際、私よりしっかり見ている場合があり、私なんぞはぼんやり大枠だけを見ていたりするのですが、母は「あの人のスカーフの模様は細かい水玉でステキね」などと言ったりします。
一方、水玉かどうかなどは私には見えてなかったりします。判定可能な私が見えないことが母には見えていたりするので、不思議です。・・・以前、私の顔をマジマジと見て、鼻の穴がでかすぎるとか言われた時に、母は目が悪いんだなと思いましたけど・・・。(乱視で広がって見えたらしい)

なので、「見ている」ということも実際に目玉に映っていることとはまた違う何かが関係しているのだろうなぁと思います。

見る感度、聞く感度。

自分の知っている世界だけが全てだと思わないことが大切ですな。

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