2014/12/11

自分という軸をもつ

みなさん、こんにちは。タンジーです。
最近、夜は本当に寒いですね〜。ブルルッ。
1ヶ月に1個ずつくらい、毛布やら何やら寝床周りのあったかグッズが増えていきます。

ところで今日は軸のお話。

私はよく「タンジーさん、全然ブレないんですね。私なんかすぐ揺らいじゃうのに」みたいなことを言われます。自分としては揺れてると思うことはあるのですが、それは他人からみたら心臓の鼓動ぐらいの揺れで、ほとんど揺らいでいないように見えるのかもしれません。とはいえ、自分でもあまり揺らぐことはなくなってきたと感じています。これが「がんこ」にならないように気をつけるほどに・・・(微笑)

なぜ揺らがなくなってきたかというと、私の場合はひとえに、そしていつものごとく「特訓したから」という理由です。では、どういう特訓かというと、「他人の軸で見ない」という特訓です。スピリチュアル的にいうと、他の人のエネルギーを自分のオーラに許可なく入れない、ということになるでしょうか。

他人の軸で見るというのは、たとえば、ごはんは朝・昼・晩の3食食べるのが良い、というような一般常識的な知識や、お正月は家族で過ごすものだ、というような家庭レベルの知識など、要するに、「自分がどう感じるかという以前からそこにあるもの」をもとにして物事を捉えたり、判断している、というイメージです。
自分がどう感じるか、を元に見たり、決めたりしないと、たーくさんある、あらゆる角度からのさまざまな意見にいちいち影響を受けてしまいます。
朝シャンが良いと言われれば朝シャンし、やっぱり夜洗うのが良いと言われれば夜にし、なるべく洗わない方が良いと言われればそうする、というような。そうじゃなくて、「いろいろ言われているが自分は今日は洗った方が良い気がするから洗うのだ」くらいの感じが自分で見て決めている、と言えます。

自分という軸ができ始める前の私は、いろいろな立場の人の意見が全部「もっともだ」と思ってどれにも決められなかったり、それが故に知識武装をしたけれど、どんどん新しくなって古いものと矛盾が生まれたりする知識に翻弄されたり、と、何かと八方美人的になってしまうことが多かったように思います。
今から思うとある意味、敏感だったんでしょう。でもいつも、それらは「自分じゃない」という感覚がどこかにありました。この感覚は正しかったと言えますね。だって確かに、本に載っているのと同じにしたからといって、それが自分の人生にとって良かったのかどうかは自分にしかわかりませんから。ただ、良くなかった時に、本のせいにできるから、その知識にすがってしまうのかもしれません。本当はその本の知識を採用した自分に、責任があるのですが。


自分という軸が曖昧で、他人の軸でばかり見て決めて過ごしていると、最終的に「私の人生なんだったんだ」ということになりかねません。第一、楽しくありません!
他人の軸にのっているうちは、自分の選択に対する責任も曖昧になるような感じがして、大きいものであれ小さいものであれ自分の選択に責任を持つ、ひいては自分は自分の人生に対して責任をもっているのだ、ということを忘れられ、居心地がいいのかもしれません。だからなかなか、自分軸を持とうとしないのかな。
「揺らいじゃって・・・」なんて言っている人でも、じゃあ揺らがないように特訓するかといえば、しない。しかし、最終的には責任からは逃れられません。自分の人生への責任からは。

私は自分の人生を生きている、と思える、感じられるように、みなさんも今日から自分という軸を意識してみてはいかがでしょうか。


★自分の内面にあるものを知りたい方には
パーソナルレッスン2
がオススメです。